中学二年生の『電気サーカス』

 『電気サーカス』という小説がある。今から20年弱前、テキストサイト全盛期のインターネットを表現したタイトルである。そこでは、主人公がいろいろなインターネッターとオフ会をし、パコをし、シェアハウスでお薬ごくごく勢として生活をする話である。

 この『電気サーカス』にはヒロイン級の格を与えられた、「真赤」と呼ばれる中学生不登校少女が登場する。このヒロインがぼくは大好きで仕方がない。

 

 ここから、前置き。

 ぼくの中学生時代の話はいろいろな人から受けがよく、聞いて喜んでもらえてると感じている。人に喜んでもらえるのは大変うれしいので、この度、記事にしてみようと思った。面白おかしく読んでもらえたら幸いです。

 中学時代、学校に居場所がなく、ついたあだ名が「愚民」だった。このネーミングセンスはとても悪いものだと思っていて、もうちょいなんかあるやろと今でも思う。あんまりもう気にしてないけどね。学校へ行けば「愚民がきた」と目の前で言われる始末である。ぼくも気が強い人間なので「愚民じゃねーよ」と言い返すと「ごめん」と言われた。ただ流行に乗っていた少年だったので気軽に呼んでいただけのようだった。味方がいないわけではなかったが、そんな学校へ行く気はもちろんなくなり、朝は起きれないわ、行っても帰りの会だけだったり、フリースクールに顔を出してガンプラを作ったり、とよくいる不登校児だった。そんな自分が特にハマったのがインターネットである。ツーチャンネラーとしてせっせとインターネットをはじめたのは、痴漢男のスレが立っていた頃だったように記憶している。2004~2005年くらいですね。

 ところで、我が家は私のみTVゲーム禁止というわけのわからないルールがあったため、ゲームに飢えていた。兄のゲームをやっている姿をみたりするのが楽しみで、パソコンが扱えるようになってからフリーゲームにハマりだした。これは小学生のころの話である。フリーゲームと言えばノベルゲームが多い。これにのめり込んだ。手当たり次第やった。一番記憶に残っているタイトルは『遠来』だ。これは小学生のころやって大変感動し、世の中にはこんな面白いものがあるのかと以後ノベルゲームをやり続ける人生となっている。

freegame-mugen.jp

 

 さて、中学生時代の話にもどろう。ハッピー☆マテリアルの熱狂なんかが残るVIPでVIPPERとして精を出していたぼくはオフ会に顔を出すことになった。理由は、エロゲがやりたいからである。もちろんエロゲを買うことができない年齢で、通販も当時扱う知識がなかったため、人に頼むことにした。そこで、VIP板の岡山スレで頼み込んだ。そうしたら「今からいくわ」みたいな軽いノリでレスがつき、サシオフとなった。

 いくらなんでもこわすぎるけど割とどうでもいい心境だったぼくはとりあえず護身用ナイフをカバンに忍ばせ、待ち合わせ場所であるメディオにて待機することになった。あちらの特徴は知らされてないため、発見されるのを待つことになる、はずだったが、なんか入り口で目があった瞬間、あ、この人だ、とお互いがそういう感じを覚え、すんなり出会うことができた。彼は7歳ほど年上で21歳だった。依頼通りエロゲーを買ってもらった。何を買ったかというと、『ToHeart2 XRATED』だった。ノベルゲームにハマっていたぼくは、全年齢版のToHeart2はプレイ済みで、どうしてもエロ有りが欲しかった。(言い忘れていたがこのころでは家で家庭内暴力騒ぎを起こしておりゲーム禁止はおろかもはや放任主義という感じの家になっていました。)

 21歳VIPPER兼フリーターの彼とは、学校に行っておらず暇にしていたぼくは相性がよく、しょっちゅう遊んだ。KeyのKanonをおすすめされたのも彼だった。これは神ゲー神ゲーと連呼されておりました。遊びはゲーセンが多かったかな。麻雀が強かったので麻雀を教わったり、ファミレスでPSPで遊んだり、そんな感じだった。当時のぼくの性格は非倫理的にすぎたので、高校に入学してからは連絡を取ることが少なくなり現在となるが、現在26歳のぼくから考えると21歳の彼は中学生と遊んで、なにがしたかったのだろう、というのはちょっと頭をよぎる。面白かったんならそれでよかったんだけど。元気にしてっかなー。おれもアラサーになったよ! 死にたいけどそれなりに生きてるよ!  しかしぼくの『電気サーカス』はまだ続いている気がするよ!

 

断章――『幸福について』サクラノ詩論

人は先に進む……その歩みを止める事はできない
たった一つの思いを心に刻み込まれて
そう、命令した刻印……すべての人……いや、すべての生命が刻印に命じられて生きている
そうね……その刻印には、ただこう刻まれている
幸福に生きよ!
猫よ犬よシマウマよ虎さんよセミさんよそして人よ等しく、幸福に生きよ!

――水上由岐
 

  サクラノ詩で語られる幸福の前に、水上由岐の語る幸福については触れておかなければならない。

 すべての生命は、幸福に生きろと命令――刻印――され、その生を全うするという思想。これはとてもわかりやすく、キャッチーで、感動的である。なにしろ、どんな状況、状態であろうと、その幸福に生きよという刻印からは逃れる術を生命を持たない。ここで、人は(生命は)、「そうか、幸福に生きればいいのか」という単純明快な生きがいを得ることができる。これをすんなり内面化できた人ほどすば日々という作品を気持ちよく内面化出来たのだろうと思う。

 さて、幸福の先の物語、と銘打たれたサクラノ詩の話になると、幸福について、語られる事情が異なる。

 まずは、宮沢賢治の『春と修羅』の引用について。

仮象のはるいろそらいちめん
ただやみくもの因果的交流電燈
明るく明るく明るく灯ります

Watermelonの電気石
音と言語の交差地点
ますます色彩過多の世界にて
七つの櫻が追い越した
わたしめがけて追い越した

ふうけいより先にわたしはなく
わたしより先にふうけいはなく
追いかけ追いつきいなくなる
ふわふわとつつまれ世界は消えていく
ふわふわの櫻の森で世界が鳴った
美しい音色で世界が鳴った

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから) 

  赤字部分が、『春と修羅』からの引用である。

 『春と修羅』の原文は下記。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

(中略)

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから) 

 非常に難解だが、言い換えてみよう。永遠の相のもとに、それが虚無ならば、虚無自身(永遠の相)がこの通り、ある程度まではみんなに共通する。すべてがわたくしのなかの世界であるように、世界のおのおのの中のすべてですから。

 こうした解釈を採れば、すば日々の幸福論と『櫻ノ詩』は虚無を明快にしているかどうかで明らかに異なる。

 次に、中原中也の『春日狂想』から見る幸福について。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

 愛するものが死んだ時には、(幸福が終わってしまったのなら)、自殺しなければならない。という強烈な一文から始まるこの詩だが、すば日々の幸福論を内面化した人なら、たしかに! と膝を打つ瞬間ではないか。すば日々では、幸福に生きよ! と言及されるが、ここで幸福の先というものが直截的に言及されることになる。

 「愛するものが死んだときには、それより他に、方法がない。」 それもその通りだ! 幸福に生きよ! に従っていたはずが、その幸福が不可逆的に失われてしまったのだから。(最も、水上由岐なら、それでも幸福に生きよ! ということは充分考えられる。)

 幸福の先の話に移ろう。

けれどもそれでも、業が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

 ここで言われていることは、非常に倫理的な箴言だ。

 と、すると、幸福の生きよ! とは非倫理的なことなのではないか、という疑問が芽生える。幸福に生きようとするとそれは利己主義から逃れなれない。利己主義を肯定するからすば日々は気持ちのよいスカッとする物語になっているとも思える。なにしろ、それは嘘ではない。本当のことを言っているから。

 つまり、ここでは幸福に生きよ! と言われる個人主義から、幸福に生きたその後、それを失い、どうしようなく、ただ生きながらえているのなら、個人主義から共同体主義へと移行せよ、と言っているのである。ここでサクラノ詩の方向性は決まる。幸福の先の物語とは、個人主義的価値観から、共同体主義的価値観への移行は如何にして成るか。草薙直哉という主人公はそういう背景を抱えている主人公である。

 最後に、ディキンソンの詩を引用して記事を終わりたいと思う。

Water, us taught by thirst.
水は、のどの渇きが教えてくれる。
Land ― by the Oceans passed.
陸地は―はるばる通ってきた海が。

Transport ― by throe ―
歓喜は―苦痛が―
Peace ― by its battles told ―
平和は―戦いの物語が―
Love, by Memorial Mold ―
愛は、形見の品が―
Birds, by the Snow.
小鳥は、雪が。

 次回は直哉についてかな。

 

今日

 昼前に起きた。突発的なやる気が出て求職活動を行った。若者就職支援センターに赴いたら、卒業三年以上経っていたら利用できないとのことで普通のハロワに通された。ハロワは来たことあるため利用方法は分かるが、ハロワかあ・・・と嫌な予感を受けた。そんなに真面目に働ける体力・気力がないのは自覚しているため、週3日のパートタイムの仕事を検索して紹介を相談してみた。そうしたら、特にキャリアアップにつながる仕事ではないし、君がやるには若すぎるというような話になり(このあたりで本日の気力ゲージがなくなっている)、あ、はい、はい、そうですね、もうちょっと考えてみます(特に考えない)というようなことになった。それでも今日はなにかした日としてご褒美にスイーツを食べた。また太るんだこれで・・・。

 適性検査では事務の仕事が向いていると出たが、派遣では事務の仕事は求人出ていないらしく、軽作業も視野にいれることにし、一つエントリーした。その仕事を紹介できる場合は連絡があるらしい。って、つまり紹介出来ない場合は連絡がないということなので、いやそこは連絡くれよと素朴に思った。

 家に帰ってからはとても体調が悪く自殺への欲求が高まった。急いで薬を飲むがあまり効いた気もしない。なので抗うつ薬も足した。気は紛れるかもしれないと思った。こうなるともう横になって、体調が回復するのを待つしかなく、ただただ死への思いが高まった。

 そうして夜になるが、体調はあまり変わらず、酒を飲むことにする(今飲んでる)。希死念慮への特効薬で、そこらへんの薬よりアルコールの方がダイレクトに効く。思考が鈍くなるので明らかに楽になる。あとブログはいい。内観療法的な効果を少し実感できる。

 では。

にっき

 最近は、朝起きて最初に感じるのが不安感で、これは全般性不安障害と呼ばれるもので、こいつと今戦っています。朝起きてなぜ最初に感じるのかというと、薬が切れているからだと思っています。要は薬が切れているというのが起床即わかるんですね。

 薬を飲めば少し落ち着くときもあれば、微妙なときもあり、まちまちです。調子良いときは調子が良いと認識できているのですごく楽なのはあるんですが、なんだか調子が良いと認識するのって不思議な感じです。おれは今調子がいいぞと精神が訴えてくるんです。嬉しいことではあるんですが、普通ではない気がします。

 今日は全体的に調子が悪く(慢性不安感)割りとつらかったです。こいつのやっかいなところは、明確な不安の原因がないところなんです。ただ存在するだけで不安があるという状態です。最近の僕はそんな感じです。めっちゃつらい。

 寝ると意識が落ちるので楽ですよね。なのでよく寝ています。今日は10時くらいまで寝て、ご飯食べて寝て、昼寝して、夜になっていた感じです。起きているとしんどいからね。さっさと死の瞬間まで意識をワープしたいものです。死の瞬間くらいなら気力使い果たして有意義なことを言う自信があります。聞かれることがあればそりゃすごいこと言ってますよ。ちんちんもがもが。

 ここ数日は調子が悪いので、調子が悪いです。本当にそれだけなんですが、なにか新しいことを始めたいですね。だって、ピアノつまんねーんだもん。7年間よく続けました。少しここらで力を抜こうか、というもののそんな真面目にやってなかったけどね。ピアノ始める前は特になにもやっておらず、一番長続きしたなあ。基本的にすぐ飽きるんですね。ピアノはすぐ飽きると思って最初は安いのを買ってました。

 新しいこと、なに始めようか。姉みたいになろう小説でも読み漁ろうか。エロゲ、すごい続いてるね。もう10年以上プレイし続けてるから、これが本当に好きなものなんだろうなという実感はある。おれはエロゲが好きです。音楽もエロゲがきっかけで始めました。なので、エロゲが元となるものなら続く気がします。エロゲ感想でも書こうか? ブログ書くのはなんか楽しいんだよな。好き勝手書けてさ、虚空に向けて適当なことをぶつぶつ言うのは楽しくありませんか? もともと独り言が多い人間ではあるんですけど、好き勝手言うのは楽しんですよきっと。おれ、ブロガーになるのか? わかんないね。

 基本的に無趣味ではあると思っていて、最近はゲームがつまらない。エロゲは楽しいと思う。その他のゲームは、そりゃもうつまらない。この原因はよくわからない。おそらくゲームはコミュニケーションツールとして扱ってきたことが影響している気はする。ボードゲームとか向いてんのかなあ。どうだろ。誰かおれを導いてくれ。

 明後日あたりに楽器屋行ってこようと思う。なにかモチベになるような楽譜なり、本なり見つけられたらいいな。ピアノ練習が苦行になっている状況はどうにかしたいと思っている。ただただ苦しい。練習は、苦しい。音が苦になってるというやつ。

 ただそれが面白いもので、プロへのリスペクトみたいなのはましている。先日コンサートを鑑賞した際、オーケストラの皆さんの、演奏もそうだけど、練習量への感情移入がすごくて、普通ではいられなかった。才能というのはあるんだろうけど、それにしても音楽への感動より、その練習量、本番への強さ、そういった心の強さに強く惹かれた。演奏はあんまり真面目に聴いてなかったかもしれない。なんか弾いてる人間ばかり見ていた。彼らには最大限の賛辞を込めて拍手をたくさんした。音楽より人間に感動していたのは少し不真面目だったかもしれない。でもそうだった。

 今日はこのくらいで。

突然死について

 いつ頃か、持ち物を減らすようになった。グッズなんか昔いっぱい買ってたなあ。どうやら、これは死を意識するようになってからの傾向のようで要は身辺整理ですね。自身の痕跡は出来る限り消したいものです。

 最近、妙にくらくら(ふらふら?)する。意識が瞬間的に出入りするような感覚で、ふとした時に戻ってこなくてもおかしくないような感覚だ。どうもおかしい。

 よく頭によぎるのは自分の持っている貯蓄のことで、これはいつか誰か自身が価値あると思う人にすべて渡したいと考えていて、タイミングを測っている。近々死ぬなというような予期を覚えたら全て渡したいと思っている。私の生は、私が価値あると思う人に尽くす生だと思ったら、とても気分がよくなる。ここで明らかになるのは、価値ある人を自身のために利用するということです。ここを誤魔化す気は毛頭なく、ぜひ、私にとって価値ある人は、私のために、私の全財産をその時には受け取って欲しい。不特定多数に寄付する気はいまのところまったくない。なぜか? 自分が気持ちよくないからである。なんて悪徳だと正直失望する。

 ところで、死はその時まで体験できない。とても神秘的でわくわくする。絶対笑わせてやるからな。死は悲しいものである、というルールを違反するので、任せて欲しい。ひとことで言えば、死はとても楽しい瞬間であった! ということです。これについては確信している。ぜひ、私の死を楽しみにしていておいてほしい。楽しんでもらえると、私が嬉しい。私の死をどうか、心待ちにしておいてください(私のためにも!)

「私」のCROSS†CHANNEL 10

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 後のRewriteである。

 

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 個でなければならないとする倫理。まあ人の存在否定やね。つきまとうものとはいえ、憎しみを肯定するなんてできないだろうし。

 よく言う話だけど人の間で生きるのが人間の生である。個であれば、人間ではなくなる。それは別の何かだ。道理だと思う。余談だが、ここから離人症という病名の話をすると少しおもしろいかもしれない。人間から離れるということとは。人らしさの消失。

 

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 かわいい。。。

 

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 太一の倫理観は実際理想的なものを目指していて、その試行錯誤のループなんだけど、これがまた、しんどいんよねえ。。無理な要因いくつ上げればいいんだ? という。

 

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 たいっちゃんの本質は84%のこと。この辺難しいよなー。理想的ともいえる倫理観を持ちつつ、だから。

 

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 84%の自分を持ちながら、自身の好悪について些細なことに思える、というのはどうも離人の気質に聞こえる。自暴自棄ではないというのがポイントやね。そりゃ、切ないわ。

 

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 これめっちゃ良いこと言ってます。人を類型化してはならない。

 人というものは、個人として見てくれ。頼むから。

 

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 ちょいとふわふわして全体的に隙のあるたいっちゃん。レアやね。七香の前だっていうのはありそうだねえエモいねえ。

「私」のCROSS†CHANNEL 9

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 太一の絡みってまあセクハラだったんだけど、コミュニケーションの手段をあまり持たないので、そこに言外の意味が発生してるとは思うんね。いや、太一セクハラ好きではあるんだけど、あるニュアンスが含まれる。これを受け止められる人が太一と交流を持てる人で、美希なんかは代表的な人であった。

 普通じゃないコミュニケーションをしているという意識、それだけしか交流において持ち出せない個人というのは絶対存在している。まあこれは言外のニュアンスを汲み取れる――非言語的なコミュニケーションが可能であったり――その他、その人を類型化できる人なんかは少なくとも表層的なコミュニケーションが可能である、とは言える。

 「私」のCROSS†CHANNELなので、個人的事情に踏み込むと、私のコミュニケーションがなんともまあ自傷めいた、いわゆる躁の気質を使っているという意識は持っています。でも大体そうなるのは好きな人の前なので、なんかそんな感じになってる時は好意全開です。これが言外のニュアンスということになるのかな。

 これは類型化すればピエロタイプなんだけど、やっぱり類型化は取りこぼしがある、ね。型にはめるということだから。

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 他者がいる=価値観が発生する、というのは触れられていた。価値は相対的なものが多いもんで。

 ここはちゃんと考えてみてもいいかもしれない。我々、というより私にとって他者がいるとは? 

 他者の目というのは基準の一つだ。なぜ基準になるか?

 それは排斥が死につながるからだ。

 実際に他者がいるのだから、この他者の視線・価値観というのは無視することはできない。無視したければ山奥に引っ込んで霞を食べていればよろしい。だからといって、個人主義の否定、とまで行くと極端だ。

 ここで出てくるのが中庸という話で、アリストテレスは偉大だという気持ちになる。そう言われてしまうと、とりあえずの納得はできる。妥協とも言いかえるかもしれない。

 ここで起こる問題は、中庸で生きていけない個人の存在ということ。これは社会病理学の分野だな。アウトサイダーと呼ばれる人たち。そこでは一定数社会にそういう人があらわれてしまう病理的現象として扱われている(違ったらすまない)。それこそ群青の人たちだ。

 ちくしょう、難しくなってきた。要は(要せるか?)、アウトサイダーとして生まれたものの生き方ということになるだろう。だって、甘く見積もっても中庸、という生き方ができなくて、社会病理的に(確率的に!)アウトサイダーとして生まれてしまったものの生。

 みみみ先輩の「ままならねーです」の台詞を改めて噛みしめるところだと思う。