足りなかったもの

 なんか文章書きたいなというか、毎日長文書いた方がいいのかなといった感じがしている。うっ、ひまなつSS……。

 ところで、今の記憶のまま小さいころに戻りたいみたいな話をたまに聞きますが、(よくこういった風に話を始めると「いや聞かないけど」といわれる)自身について考えると、記憶は別にいいので「方法」を持って行きたい思った。まあ知識のことですが、特に方法ですね。物事のやり方。

 例えば昨日、格ゲーを始めたんですけど、とても難しいです。いやこれほんとゲームジャンルの中で一番難しい類の物じゃないの? って思うんですが。それで、トレーニングモードで練習が必須になるわけです。ここで問題になるのが、何を練習すればいいのか、どのくらい練習すればいいのかといったことです。

 これって色んな技術の獲得や、勉強にも言えることで、ここで最適な方法が見つかる人がやっぱりすごい人なのかなーってのは思います。いわゆる根本的な地頭の良さのひとつ。

 こういったメタ認知のことを意識し始めたのは大学再受験の21歳のころで、勉強の仕方を考えるようになってから。今考えるとそれ以前から無意識的に実感していたなあと思うのは楽器の練習です。

 思うと、昔から方法というものを全く考えたことが無かった。

 ゲームにしろ、勉強にしろ、習い事にしろ、ただ漫然とやり、「こうすればいい」というものを見つけなかった。

 どうやらメタ認知的知識を増やすためには、とにかくやり始めるしかなくて、他人から教えてもらってどうなるものでもないらしい。トライ&エラーの結果で効率的になっていくということですね。

 とすると、僕はなにもやらなかった。というかですね、できなかったら辞めてたんです。なんもかんも。

 大学入学した頃に、ブログに「なにをやっても続かない人生なので、ピアノも続くかわからない」みたいなこと書いてるんですよね。

 一度ピアノは習っていて辞めているのもあって自信もなかったんですけど、弾いてみたいなあと思って始めたわけなんですが、これが自分が方法について考え始めた最初の出来事のような気がします。

 片手ずつ弾くといいらしい、から、どうも両手で合わせてゆっくりした方が効率的である、といったことやら、少し慣れてくると、この難易度の曲は一週間でだいたい通して弾けるだろうといったことまでわかる。こうなるとある程度継続して練習することができるようになってくるんですね。自分の能力をおおまかに把握することで、できないから辞めるという思考から一歩進んで、自身の能力と課題の難易度を考えて、練習をしたり、諦めたりし始めました。

 そうすると、もう昔のできないから辞めるって思考がさっぱり思い出せないわ理解できないわとなってですね、頭の悪さに辟易とするわけです。完全に頭のネジが足りない。

 発達の観点では、こういったメタ認知は思春期には成人と同じように発達しているようで、同程度発達しているはずなのに技術・学力の獲得に差があるのは、メタ認知的知識に差があるとのことでした。つまり、経験の差から、自身の能力や方法といったものを分かる人と分からない人が出る。自身ができることに気づく人と、気づかない人。

 思い当たる節はある……。うん。これに加えて頭の性能の良さが出てくるんでしょうね。ただすごい頭の性能が良い人でもメタ認知的知識の不足に悩んだりもしてるのかなあ。ただ、頭悪い人間としては、このメタ認知の概念は救いにもなっています。どうしたら凡人に近づけるのかということを考えるとき、助けになるからです。