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 定期的なこととして、アルバイトを探してみたり、就活サイトを見たりした。

 一生懸命に生活している人に憧れがあるので、自分もそうなりたいという気持ちがあるのだ。やはり、ちゃんと生きている人はかっこいい。私は大学生だから、勉強をしていれば良いのだろうが、二ヶ月も休みがあると焦燥感も出てくる。

 結局のところ、目の前のことに一生懸命になるしかないのだ。未来を見ても、はたまた過去を思い出しても極まったところにおいて意味は存在しないのだから。

 私が今こうしてあることのルーツとしての過去、悪いことも多かったし、今生きているということは、それなりに良いこともあった。主観的幸福感は少ないが、それでもあった。それに思いを馳せて、何を感じるか。生きてきた、ということしかないのです。

 どうしてか、ということもなく、ただ生を与えられたから生きてきたのです。どこまでも受動的な生は、生きる意味を探せと突きつけてきたかのようです。私はそれを探したいと思うことは相対的に少ないようです。ただ与えられただけです。過去というものを考えても、そこには与えられたものを処理する私しかいないのです。

 将来、未来というものは、これから与えられるもののことです。

 自身で未来をつかめとは言いますが、掴まざるを得なくされているのです。生きているのであれば、そういった能動性というものは良い誤魔化しとして機能するのだと思います。しかし、やはりそれは、根本的には受動的で、与えられたもの(欲しくもないのに)ということであろうと思います。そういったどうしようもない無意味感……欲しくもないのに与えられたものに対するには、必死に目の前の与えられたものを処理することが考えられます。逃れられない受動性は、意識しつつも、生きるということが与えられるということだというのであれば、それを懸命に処理していくしか、私は生きられないでしょう。