むかしむかし、明るい光が灯っておりました。

 この光は緋色で、どこか柔らかい印象を与えるものでした。

 照らされた物たちは光に応えるかのように、反射を繰り返しました。

 ところでこの光、指向性があるのです。

 直接光を浴びることのできない物々は、反射されてきた光のおこぼれにあずかろうと必死です。

 反射の際に吸収され、少し薄暗くなった光でも、照らされないよりはましでした。

 光に照らされない物々は闇に包まれ、その存在が感じられないほどでした。本当に存在しているの?

 ある時、光に照らされた物たちの間で、とある話題がブームになります。

 それは、「見ることは決してできないけど、存在している物があるらしい」というゴシップでした。

 どこからか提供されたこの話題は荒唐無稽に感じられ、照らされた物たちにとって信じられるものではありませんでした。

 光に照らされた物たちは、長い時が経つうちにそのことに慣れきってしまっていて、かつて自分が光を求めていたことを忘れてしまっていました。

 闇の中、ふと、きこえてきました。

「光に照らされるのは、きっと悪いことなんだ」

「だって、明らかになりたいと願ったのに、彼らは見える範囲が逆に狭くなっているじゃないか」

 おやおや、ひねくれています。

「ひねくれてる? 正しいことを言っているだけだ!」

「ぼくたちは、光に照らされなくてもいい。自分たちが見えなくていい。それに価値がないことがわかった」

 どうやら、手に入れなくとも無価値だと判断できるようです。本当かなあ。

 はたして自分が体験しなくともその価値判断を正確に行うことはできるんだろうか?

 それは、今の価値観で判断しているに過ぎないと。見えているものが違うのだと。

 自分の視界とは? 認知とは? 価値観の枠組みとは?

 ひとつしか存在しない胡乱なそれに対して、どこまで信頼できる?

 わたしはあなたのそれを信頼するが、決して理解できないことを、理解したい。

 これを適用する限り、あなたに対しても、この記述が適用されたい。

 破綻しているのがわかる。『あなたに適用されない』ということも理解しないといけないのだ。

 だからこそ、適用されないあなたが重要となる。そのあなたに対して、わたしはこの上ない信頼を向けることになる。

 わたしに同意や関心、共感を向けてくれる人がいた場合、その場合も重要である。

 わたしはその現象を理解し、決して理解しないように努める。この場合必要なのは努力だ。

 つい嬉しくなってしまうから。