現存在の異常さ

 自分が生まれる前の世界に思いを馳せる。

 3才児健忘を参考にすると、僕の最古の記憶は1994年だ。まだマンションに引っ越す前の一軒家だったので分かりやすい。二階だ。夜、敷布団で寝ている。ふと起きたのか、暗い部屋と、月明かりに白く光った窓が見えている。この時が、まだ曖昧だけども僕の自我が生まれた時である。それ以前のことは、知らない。僕が幼稚園に入園する時にはもうマンションだったから、それから一年するかしないかくらいで引っ越したのだろう。

 0~2歳のころ、生きていたはずである。しかし、まったく生きていた覚えがない。でも物理的な連続性は保った自分ではある。親は僕を息子だと認識するし、そうなのだろう。ということは、自己というものは、他者によって規定されているとも言える。なんせ、僕以前の僕を、僕として扱っている。そこに僕の意志が介入するところはなく、僕として存在していた、ということになっている。それなら、僕にとって0~2歳の僕は他者なのか、というとそうでもない。0~2歳の僕が死んでしまうと、僕は存在しなかったであろうからだ。

 1994年以前の世界はどうも在ったらしいが、僕は存在しなかった。自我がないか、死んでいたのかのどちらかである。「まだ生まれてなかった」という言葉は少しニュアンスが異なる。いつか生まれるということが決められているように聞こえる。そんなことはない。様々な偶然がある。天文学的確率だ。そういったことを通して、生まれた。・・・分かった。生まれたのはいいとする。でも、僕である必要はなかった。脳が発達して、神経が結びついて、意識が生まれて、それが僕なわけだけど、そういった物理的生理的なことを考えても、僕であることに帰結しない。なぜなら、今、目の前に僕と物理的にまったく同じ存在が現れた時、それは僕ではないだろうからだ。そうすると、生まれて、さらに僕が生まれるというのはかなり特異なことであると言える。

 どうもそういったことを考えると、僕が存在していないことが普通らしいということが分かる。存在していることがイレギュラーな事態である。そうすると、色々なことに説明がつく。

 1994年以前の世界がどうも何十億年も在った。僕は存在していない。まさに普通の世界だ。

 1994年以降の世界が在る。ぽつんと、唐突になぜか僕は存在している。これは異常である。

 そのうち、僕は消える。消えた後、常態としての世界が時間としては無限にきっと在るだろう。

 たぶん、今これ以上考えても、そうできているということにしかたどり着かない。