「私」のCROSS†CHANNEL 9

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 太一の絡みってまあセクハラだったんだけど、コミュニケーションの手段をあまり持たないので、そこに言外の意味が発生してるとは思うんね。いや、太一セクハラ好きではあるんだけど、あるニュアンスが含まれる。これを受け止められる人が太一と交流を持てる人で、美希なんかは代表的な人であった。

 普通じゃないコミュニケーションをしているという意識、それだけしか交流において持ち出せない個人というのは絶対存在している。まあこれは言外のニュアンスを汲み取れる――非言語的なコミュニケーションが可能であったり――その他、その人を類型化できる人なんかは少なくとも表層的なコミュニケーションが可能である、とは言える。

 「私」のCROSS†CHANNELなので、個人的事情に踏み込むと、私のコミュニケーションがなんともまあ自傷めいた、いわゆる躁の気質を使っているという意識は持っています。でも大体そうなるのは好きな人の前なので、なんかそんな感じになってる時は好意全開です。これが言外のニュアンスということになるのかな。

 これは類型化すればピエロタイプなんだけど、やっぱり類型化は取りこぼしがある、ね。型にはめるということだから。

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 他者がいる=価値観が発生する、というのは触れられていた。価値は相対的なものが多いもんで。

 ここはちゃんと考えてみてもいいかもしれない。我々、というより私にとって他者がいるとは? 

 他者の目というのは基準の一つだ。なぜ基準になるか?

 それは排斥が死につながるからだ。

 実際に他者がいるのだから、この他者の視線・価値観というのは無視することはできない。無視したければ山奥に引っ込んで霞を食べていればよろしい。だからといって、個人主義の否定、とまで行くと極端だ。

 ここで出てくるのが中庸という話で、アリストテレスは偉大だという気持ちになる。そう言われてしまうと、とりあえずの納得はできる。妥協とも言いかえるかもしれない。

 ここで起こる問題は、中庸で生きていけない個人の存在ということ。これは社会病理学の分野だな。アウトサイダーと呼ばれる人たち。そこでは一定数社会にそういう人があらわれてしまう病理的現象として扱われている(違ったらすまない)。それこそ群青の人たちだ。

 ちくしょう、難しくなってきた。要は(要せるか?)、アウトサイダーとして生まれたものの生き方ということになるだろう。だって、甘く見積もっても中庸、という生き方ができなくて、社会病理的に(確率的に!)アウトサイダーとして生まれてしまったものの生。

 みみみ先輩の「ままならねーです」の台詞を改めて噛みしめるところだと思う。