断章――『幸福について』サクラノ詩論

人は先に進む……その歩みを止める事はできない
たった一つの思いを心に刻み込まれて
そう、命令した刻印……すべての人……いや、すべての生命が刻印に命じられて生きている
そうね……その刻印には、ただこう刻まれている
幸福に生きよ!
猫よ犬よシマウマよ虎さんよセミさんよそして人よ等しく、幸福に生きよ!

――水上由岐
 

  サクラノ詩で語られる幸福の前に、水上由岐の語る幸福については触れておかなければならない。

 すべての生命は、幸福に生きろと命令――刻印――され、その生を全うするという思想。これはとてもわかりやすく、キャッチーで、感動的である。なにしろ、どんな状況、状態であろうと、その幸福に生きよという刻印からは逃れる術を生命を持たない。ここで、人は(生命は)、「そうか、幸福に生きればいいのか」という単純明快な生きがいを得ることができる。これをすんなり内面化できた人ほどすば日々という作品を気持ちよく内面化出来たのだろうと思う。

 さて、幸福の先の物語、と銘打たれたサクラノ詩の話になると、幸福について、語られる事情が異なる。

 まずは、宮沢賢治の『春と修羅』の引用について。

仮象のはるいろそらいちめん
ただやみくもの因果的交流電燈
明るく明るく明るく灯ります

Watermelonの電気石
音と言語の交差地点
ますます色彩過多の世界にて
七つの櫻が追い越した
わたしめがけて追い越した

ふうけいより先にわたしはなく
わたしより先にふうけいはなく
追いかけ追いつきいなくなる
ふわふわとつつまれ世界は消えていく
ふわふわの櫻の森で世界が鳴った
美しい音色で世界が鳴った

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから) 

  赤字部分が、『春と修羅』からの引用である。

 『春と修羅』の原文は下記。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

(中略)

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから) 

 非常に難解だが、言い換えてみよう。永遠の相のもとに、それが虚無ならば、虚無自身(永遠の相)がこの通り、ある程度まではみんなに共通する。すべてがわたくしのなかの世界であるように、世界のおのおのの中のすべてですから。

 こうした解釈を採れば、すば日々の幸福論と『櫻ノ詩』は虚無を明快にしているかどうかで明らかに異なる。

 次に、中原中也の『春日狂想』から見る幸福について。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

 愛するものが死んだ時には、(幸福が終わってしまったのなら)、自殺しなければならない。という強烈な一文から始まるこの詩だが、すば日々の幸福論を内面化した人なら、たしかに! と膝を打つ瞬間ではないか。すば日々では、幸福に生きよ! と言及されるが、ここで幸福の先というものが直截的に言及されることになる。

 「愛するものが死んだときには、それより他に、方法がない。」 それもその通りだ! 幸福に生きよ! に従っていたはずが、その幸福が不可逆的に失われてしまったのだから。(最も、水上由岐なら、それでも幸福に生きよ! ということは充分考えられる。)

 幸福の先の話に移ろう。

けれどもそれでも、業が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

 ここで言われていることは、非常に倫理的な箴言だ。

 と、すると、幸福の生きよ! とは非倫理的なことなのではないか、という疑問が芽生える。幸福に生きようとするとそれは利己主義から逃れなれない。利己主義を肯定するからすば日々は気持ちのよいスカッとする物語になっているとも思える。なにしろ、それは嘘ではない。本当のことを言っているから。

 つまり、ここでは幸福に生きよ! と言われる個人主義から、幸福に生きたその後、それを失い、どうしようなく、ただ生きながらえているのなら、個人主義から共同体主義へと移行せよ、と言っているのである。ここでサクラノ詩の方向性は決まる。幸福の先の物語とは、個人主義的価値観から、共同体主義的価値観への移行は如何にして成るか。草薙直哉という主人公はそういう背景を抱えている主人公である。

 最後に、ディキンソンの詩を引用して記事を終わりたいと思う。

Water, us taught by thirst.
水は、のどの渇きが教えてくれる。
Land ― by the Oceans passed.
陸地は―はるばる通ってきた海が。

Transport ― by throe ―
歓喜は―苦痛が―
Peace ― by its battles told ―
平和は―戦いの物語が―
Love, by Memorial Mold ―
愛は、形見の品が―
Birds, by the Snow.
小鳥は、雪が。

 次回は直哉についてかな。